松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途次、柏崎にたどり着いたのは元禄2年(1689年)7月5日であった。太陽暦の8月19日の暑い盛りである。芭蕉は、この日、弟子の曽良(そら)を伴い、出雲崎から約7里半(30km)の道のりを歩いて柏崎に着いた。象潟(きさがた)で会った宮部弥三郎の紹介状を持って、天屋弥惣兵衛方に一夜の宿を請うたがにべもなく断られてしまった。芭蕉は憤然として天屋を去り、雨の中をさらに約4里(16km)もある鉢崎(はっさき・・現米山町)まで歩き、博労(ばくろう)宿の「たわら屋」に泊まった。天屋はいったん断ったものの気がとがめたのか、2度まで宿の召使いを走らせ芭蕉たちを呼び止めたが、芭蕉はよほど不快だったと見えて、ついに戻らなかった。
それにしても俳句をたしなんだ天屋弥惣兵衛が、なぜ芭蕉の一夜の宿を断ったかは謎とされている。柏崎には談林俳諧がかなり高い水準で普及していたことが、この謎を解くカギだという説もある。
談林俳諧というのは仙台の大淀三千風の系統で、芭蕉より6年も前の天和3年(1683年)に柏崎で句会を開いている。天屋もこの流れを汲み、芭蕉などはアウトロウ的な俳人として、まともに相手にしなかったという説である。
|