お別れの言葉
「先生、中山先生、一夫です。」どうお呼びしても、も
う返事を聞くことができないところへ行かれたのですね。
今、静かに微笑みかける先生の遺影の前で、黒川中学校
で先生に教えられた大勢の皆様に代わって、一冬でしたが
我が家を宿としていただいたご縁があります私がお別れの
言葉を申し上げます。
去る6月、ご子息様にお逢いした時に体調を崩され入院
中と伺っておりましたが、このように早くお亡くなりにな
るとは考えてもみませんでした。
いずれお元気になられ、来年のクラス会でお逢いできる
ものと思っていましたので残念でたまりません。
こうしていても「やあ篭島君かね、よう来てくれたね、
皆さん元気かね、さああがって、あがって。」と声をかけ
て、出てきて下さるような気がいたします。
先生が黒川中学校に赴任されたのは、昭和22年「新し
い教育制度」がスタートした年であったかと思います。
以来、夏は自転車で、冬は学校の近所に宿をとり、生徒の
自主性を重んじながら生徒と正面から向かい合い、目線を
合わせて授業に生徒指導にと傾注されていましたね。みん
なに慕われていた友達のような先生でした。
本当に誠実で温厚な友達のように慕われていたそんな先
生に、誰がつけたのか「浜のじちゃ」の愛称がついて、
「じちゃ、じちゃ」と呼んでいたことは先生もご承知でし
たでしょうね。
当時若かった先生に失礼な呼び方をしていたものだなあ
と思われてなりません。お許し下さい。
ここで先生とのふれあいの一〜二を紹介させていただき
ます。
私達が3年生の夏休みのことでした。男子のグループに
「鉢崎海岸で海水浴をやるので家に来なさい」との誘いで
した。みんな喜んで賛成です。生徒は全員歩き、先生は自
転車です。学校を出て柿崎まで来た所で、予定を変えて途
中、大清水観音に寄ることになりました。当時は険しい山
道を先生の自転車を押しながら悪戦苦闘して登ったことも
半世紀を過ぎた今でも、楽しかった思い出の一つとして残
っています。
次は進路指導です。ようやく戦後の混乱も落ち着き、中
学を卒業して都会に働きに出た人も大勢いましたが、高校
進学の気運も高まってきた頃でした。
先生は、全員合格を目指して自分の宿に生徒を寄せる特
別教育をしてくださいましたね。みんな楽しく通ったもの
でした。一方では都会へ行った生徒のことも大変心配され
たと云う、当時の苦労話を退職された後に教えていただき
ました。
そのように気配りされておられた先生に、卒業後もご指
導いただいてきたことに深く感謝いたします。
本当にお世話になりました。
そんな先生にも、もうお逢いすることができません。し
かし私達は先生のお教えを大切にして残された人生を生き
ていきますので、先生も安らかにお眠り下さい。
中山先生、誠にありがとうございました。
重ねてお礼を申し上げて、お別れの言葉といたします。
平成13年9月8日
黒川中学校第5回卒業生 篭島 一夫 様
(父 雅一 享年83歳 告別式の「弔詞」より)
父雅一の告別式に寄せて