鉢崎関所とトラブルを起こした伊能忠敬


 文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」などの我が国最初の実測日本地図を完成した伊能忠敬は、越後測量のため享和2年(1802年)と同3年の2回来越している。第1回は9月16日から10月17日までであったが、この間10月1日には柏崎で、翌2日には鉢崎(現柏崎市米山町)に泊まっている。
 伊能忠敬の測量隊と鉢崎関所の番所役人の間に、トラブルが起きたのは10月2日であった。7人の測量隊が「幕府御用」の旗をかかげ、重い象限儀(子午線観測に用いた器械)や方位盤、鉄鎖、間縄(けんなわ)などを担いで、鉢崎関所にさしかかったのは同日の夕暮れであった。すでに58歳という老体の忠敬は、朝早く柏崎を発って、北国(ほっこく)街道の難所米山三里の山坂峠の測量をこなしてきたので疲労困憊(こんぱい)していた。一行は今日の宿泊地鉢崎の関所にたどり着いてホッとした。
 鉢崎関所は、江戸幕府が全国の主要道路の要所を固めた53関所の一つで、当時は高田藩が預かっていた。佐渡金山からの金塊を江戸へ運ぶ中継基地として重きをなし、御金蔵などもある伝統ある関所であった。
 そこへ忠敬一行が、かぶり物も取らず、異体の知れない測量器具を担いで関所の木戸を通り抜けようとしたので、番所役人たちは「スワッ関所破り!」とばかりに羽織、袴も着けずに飛び出して来た。忠敬一行の前に立ちはだかり、やにわに測量隊の器具類を改め始めた。
 忠敬の怒りは心頭に発した。自分たちの仕事は、日本全土の測量による初の日本地図を製作する神武創業以来の壮挙だと自負していたからだ。それに測量のことは、幕府から諸藩に連絡済みのはずだと思い、「お前たちは、幕府御用の旗が目に入らぬのか」と忠敬は、関所役人に対してい居丈高に怒鳴った。「幕府の命令によって測量をしている我々に挨拶もせず、番所役人のくせに羽織、袴もつけない無礼はどうしたことだ。それに我々の命とも頼む測量器具に無断で手をかけるとは何事か」と語気鋭く詰め寄った。
 藩から何の連絡もなかった関所役人にしてみれば、忠敬らの行動は幕府御用を笠に着た慣例無視の不遜行為として、責められても仕方がなかったのである。しかし関所役人が一応折れて、一件落着となった。忠敬らは鉢崎と同じトラブルを糸魚川でも起こしている。一行は同夜は鉢崎に一泊、夜は星による天測を行い「鉢崎宿、緯度37度15」と書きとめている。
 第2回の越後測量は享和3年8月で、富山から鉢崎を経て、8月17日柏崎に泊まり、21日には尼瀬から佐渡へ渡っている。このときは幕府から白川藩を通じ「万端差し支えなく取り計らうよう」という通達が徹底していたので争いごとは起きなかった。